加賀市片山津温泉には、その境内に「どこでもドア」っぽいドアが置かれている愛染寺というお寺があるというので、桜の季節にお参りに行ってきた。
加賀市片山津温泉をお守りするお寺
加賀市の温泉街の一つ片山津には愛染寺というお寺がある。
なんでもそのお寺にはあの某国民的漫画に登場するピンク色のドアっぽいものが置かれているそうだ。
ずっと気になっていたので桜の季節に片山津へ行ってきた。
まずは地図
こんなところにある。
このあたりは道も細いので、車で行くには難儀すると思われるが、目的のお寺には駐車場もあるので車でも行ける。
ご覧のように
右手の石段をのぼるともう境内で、その石段を迂回するように急な坂が左手にあった。
その坂を上っていけば境内に駐車スペースに停めることができる。
このような感じで
こちらは最初の石段を上った先なので、車でくると「門」をスルーすることになる。
それは味気ないので、車を降りてから石段も降りて、石段を見上げる所から始めてみた。
結構な勾配だった
下から見上げるとかなりの高さがあった。
そして急な石段だ。
運動部の筋トレに使えそうではないか。
なになに
犬の散歩や撮影だけではなく、お参りに来るところのようだ。
「どこでもドア」が置かれているってことで知られているところだけど、撮るだけ撮って帰るのではなくちゃんとお参りしたほうが良いということだろう。
無論、そのつもりだ。
石段を登っていくとこんな門が
どう見てもハート型だ。
「猪目門」というそうだ。
このハートに似た形が「猪目」というそうで、古来より日本にある図柄なんだとか。
魔除けや福を呼ぶ形らしい。
幸せになれるパワースポットのようになっているようだ。
門のすぐ左に「どこでも幸せドア」
猪目門をくぐると、すぐ左手に噂のどこでもドアがある。
本当は本堂へお参りに行ってからそのドアを鑑賞すればいいのだろうけど、すぐ目についちゃうんだから先に撮影してしまった。
はい、このように
自分などは車でやってきて、駐車した場所がドアの真ん前だったものだから、どうしたって最初に目についてしまった。
ご覧のように、ピンク色のドアのようなものが置かれている。
正しい名前は「どこでも幸せドア」だ。
色が色だけにまわりのサクラの色と溶け込んでいるようにも見える。
いい季節に見に来れたと思う。
前方へ
こんなところに置かれている。
開かれたドアを抜けて展望台のようなところに出ると片山津温泉の町を見下ろせ、遠くには柴山潟も見渡せる。
景観の良いところだ。
このお寺が片山津温泉を見守っているのがよくわかる。
風を感じられるのも心地よくて、それによってときどき桜吹雪が舞うのも、なんか、昔のアニメで描かれるような情景でエモい。
閉めれます
ドアは閉めることもできる。
締めてしまうと、もう完全にあの未来からきた猫型ロボットがお腹のポケットより取り出したドアだ。
この前で記念撮影をしている人が多かった。
普段は常に開いているようで、開扉時間は朝の6時30分~17時までと書かれてあった。
また、マナーが悪いようなら締めてしまうとも書かれてあった。
こちらが注意事項
マナー違反が横行すると扉を閉めるだけではなく、扉そのものを撤去することも厭わないようだ。
何より、お寺なので撮影だけではなく本堂にお参りにいくのが基本だ。
自分としてもそのつもりであったので、このあとすぐ本堂へと向かった。
お参りして絵馬に願いを
猪目門からまっすぐ進んだ先が本堂だ。
決して広い境内ではないので、すぐにたどり着ける。
こちらが本堂
地図なんかでは「瑠璃光山 愛染寺」とも書かれてあった。
片山津を守護する山にあるお寺なので、本堂も高いところにある。
きれいな仏像
境内には何体か仏像も置かれている。
そのほとんどがまだ新しいのか、状態がよかった。
桜と一緒に撮りたくなってしまう。
お参りが先だろうに…
ではお参りだ
神社とは違うので、二礼二拍手一礼のようなことはせず、合掌させてもらった。
自分はお寺の正しいお参りの仕方をよくわかっていない。
左右の脇には絵馬が納められているのだけど、その絵馬というのもまたかなり特徴的なものだった。
ここでもハート型だ
猪目の形というのが正しいのかもしれないけど、どう見てもハート型だ。
しかもこれ、日本初で、ここ愛染寺だけの「はめ込み式絵馬」なんだそうだ。
その名も「一心絵馬」というらしい。
これは興味深い。
自分も一つ願い事を書きたくなったので、御朱印とあわせて求めることにした。
この絵馬も御朱印も、本堂の中に入っていくといただくことができる(もちろんお金を納めて)。
入ってみると、右手に住職さんと思われる方が座っていて、自分より前の参拝客の御朱印に対応していた。
その流れから自分も話しかけ、まずは御朱印を、続いて一心絵馬をいただきたい旨を伝えると、絵馬に関しては説明を先に聞いてもらいたいということだった。
説明に数分かかるが、それを聞いてもらわなければ絵馬を渡せないような雰囲気がある。
なかなか厳格なもののようであるが、自分としても変なことはしたくないし、住職の話を聞けるだけでも貴重だと思うタイプなので、まったく問題なかった。
住職の説明は「愛染寺」の正しい読み方から始まった。
「愛染寺」はこう書いて「あいぜんじ」と読む。
その由来は愛染明王(あいぜんみょう)からだ。
愛染明王は仏教の中でも縁結びに強い仏様のようで、そのことから縁結びに御利益ある「一心絵馬」を考案されたそうなのだ。
日本初の「はめ込み式」の仕組みや、願いの書き方、絵文字禁止、納め方等々を教えてもらった。
かなりしっかりとした決まりがある。
それでいて絵馬と猪目門なんかで写真を撮ってOK、むしろ推奨してくるんだから、現代的でオープンと言うか、SNSを利用した広め方(これも布教というものだろうか)をわかっている方だなとも思った。
そのように緩急もあるので、話も楽しかった。
では自分も書いてみよう
本堂の中にはテーブルやペンなんかが用意されていて、そこで書くことができる。
赤いハートの裏に願いを書いて、それを絵馬にはめ込むことになる。
ハートの裏に書く(プライバシーにかかわるところは画像処理で隠してあります)
我ながら字が汚いけど、ちゃんと自分の文字で記入。
願いを込めてちゃんと文字で書くことが大事なようで、絵文字を使ったり、絵を描いたりしてはいけないと言われた。
安心してください、自分は字が汚いが、絵心はもっとないので絵を描こうなんてさらさら思いません。
なお、この絵馬を購入した人だけなのか、本堂のさらに奥の愛染明王の像が置かれた部屋に入っていくことも許された。
愛染明王さまの前まで絵馬を持っていって参ると良いそうだ。
この奥のお堂
なんか有名人のサインがいっぱい並んでいるな…
奥に入っていくと、愛染明王、さらに弘法大師と准胝観音(じゅんでいかんのん)の像、3体が並んでいた。
住職いわく、境内、常識の範囲内ならどこで撮影してもいいと仰っていたけど、さすがに恐れ多いので、それら像の前では撮らなかった。
撮らなかったけど、ちゃんと絵馬を持って参ってきた。
ちなみに外からだとこの中に愛染明王(他二体)の像がある
こうしてみると宇宙戦艦の居住区みたいだ。
なんかかっこいい。
納める前に撮影
絵馬は本堂入り口両脇に納めるのだけど、納める前に住職さんが進めるように境内で撮影だ。
猪目門前でハートのコラボだ。
より縁が強化されたような気がしてくる。
ちなみにハートの赤い色は山中漆器の職人さんによる漆塗りだそうだ。
どこでも幸せドアの前でも
幸せチャージ。
ついでに、絵馬の紐の部分が赤いのも縁結びを願っての物なんだとか。
住職さんが一つずつ取り付けているんだって。
人の手がかかっている、有り難い絵馬だ。
桜とも撮ってしまう
4月1日、ちょうど満開の頃にやってきたので、境内の桜もキレイだった。
せっかくこの時期に来たのだから、桜とも撮影だ。
満開の頃に来れたのも一つの縁だ。
最後にはめ込んで奉納
写真の方向(表の絵馬に対して、ハートの赤い面を上にして)からしかハメ込むことができない。
ハートを裏返して絵真正面からはめ込もうとしても、絵馬の裏側からハートを表の状態にはめ込もうとしても、絵馬の裏側からハートを裏の状態ではめ込もうとしてもハマらないような設計になっている。
この方向からだとどうやってもハマらない
ハートをひっくり返しても入らない。
形だけを見ると入りそうなものなんだけど、僅かにシンメトリーではないので入らないのだ。
これ、面白くて不思議。
日本初、愛染寺だけというのも頷ける。
しっかりはめ込んで納める
キッチリはめ込むと簡単には外れない(力を加える必要あり)。
微妙な差から中にはハマらないものもあるそうなんだけど、ちゃんとハマるかどうか、住職さんも日々確認して提供しているそうだ。
渡される前に自分も確認してから受け取るので、もちろんこれもピッタリとハマっている。
こういうところにも「力」を感じる
縁がありますように。
まとめ&狛犬発見
参拝記録の御朱印
どこでもドアっぽいドアで知られるお寺だけど、しっかりとお参りもした方が良いお寺だった。
実際お参りしてみると、日本初のはめ込み式の絵馬にも出会える。
そのこだわりも独特で、住職の説明にも真剣さが伝わってくるからパワーを感じてしまう。
厳格で保守的なようで、それでいて現代的で発想が自由な感じもある。
この硬軟さがユニークですごく記憶に残るお参りとなった。
あ、狛犬いた
境内の片隅にちょこんと置かれていた。
片付け中といった感じに置かれていたが、年季を感じる可愛らしいものだ。
狛犬写真家を自称しようかと目論む自分にとってはこれも一つの縁だ。
お寺なのに狛犬がいるっていうのは、石川県内、特に白山の周りには結構ある。
神仏習合のようなこういう考えの柔軟さがいまも残って続いているのかもしれない。
縁の力を高めたくなったら、また来たい。