奥能登国際芸術祭2023、内浦側から回った鑑賞旅第二日目その7では上戸エリアの柳田児童公園に置かれていたN.S.ハーシャさんの作品を観てきた。
小さな公園に迷子のキリンの親子がいた。
柳田児童公園の駐車場問題
奥能登国際芸術祭2023の鑑賞旅第二日目、同じ上戸エリアでありながら山の中の発電所へ車でヒルクライムしてきた前回の作品とは異なり、今回向かったところは「いつもの上戸エリア」だった。
上戸エリアと言えば海側だよね。
前回の山の中の発電所は住所では上戸なのかもしれないけど、とても同エリアには思えなかったよ…
さて、その場所は柳田児童公園だ。
ここは2020+のときにも作品の展示場所になっていたので、どのあたりにあるのかもよく覚えている。
前回と比べると余裕でたどり着ける、なんなら駐車場として開放されていた場所も覚えている…
そんなお気楽気分でむかったのだが… 2020+のときに駐車場になっていた空き地が、近くの飲食店の土地になっていて、勝手に停めることができない状態になっていた。
さらにいうと、駐車場の案内看板も公園へと向かう道中に見つけることができず、どこに停めて見に行けばいいんだよと、しばらくその周りの道路をウロウロとすることになってしまった。
普段は必ずと言っていいくらい作品ごとに駐車場の案内看板があるのに、この作品にだけはなかったのだ。
仕方なく…
こんなところに停めた
公園の一つ手前だ。
そこが同公園の駐車スペースなのかどうなのかよくわからなかったが、そこにしか停めれそうな場所はなかったのでそこに停めた。
軽自動車やコンパクトカーならここに停めても車体が道路にはみ出すことはなかった。
許してほしい。
36番 N.S.ハーシャ「なぜここにいるのだろう」
作品看板は駐車スペース(?)の手前にある。
36番だ
インドのN.S.ハーシャさんによる「なぜここにいるのだろう」という作品だ。
タイトルだけではどんなものなのか想像しづらいが、先に言ってしまうとキリンだ。
公園の中にキリンがいた。
このように
え? どこに?
と思われるかもしれいないが、この海を望める小さな公園の木の下に、白色のそれがいるのだ。
近づいてみよう
見えるだろうか?
ブランコの奥、木の枝の下にいる白いキリンの姿が。
体が白いので空と同化して見えるが…
その色と大きさから本来なら違和感でしかないはずなのに、なにかこの公園に溶け込んでいるようでもある。
ここまで来ればわかるだろう
その美しいフォルム、本物のキリンかと思うくらいだ。
でももちろん、造形物だ。
首には花輪
さらにはスピーカーや顕微鏡なんかもくくりつけられているから、この白いキリンが生物なのかそれともマシーンなのか、そのあたりが気になってくる。
なんならその中間の存在のようにも思えてくる。
ちなみに足元には子供もいる
母親同様に白いボディと首から花輪のスタイルだ。
母親だとわかったのは…
その子が乳を吸っているからだ
生命の躍動を感じさせるので、これだけ見るとマシーンではなく生物だ。
なんでもこのキリンの親子、迷子なんだとか。
何故かこの珠洲の海の近くの公園に迷い込んできたらしい。
母親は海を眺めて途方に暮れている
「どこやねん、ここ…」
自分の耳にはそんな声が聞こえてきそうだが、タイトルを鑑みれば「なぜここにいるのだろう?」とのアテレコが正解なのだろう。
バシルーラで母子共々故郷から弾き飛ばされてきたんだよ、と教えてやりたくなるが、そんな設定はもちろん自分だけの妄想だ。
そもそも、彼女たちに帰る家があるのかどうか?
ガイドブックを見る限りそんな問いかけも観る側にしているようなのだ。
けど…
意外と呑気そうな顔もしている
そんなもので意外とこの珠洲という土地に順応してしまうんじゃないかと、自分などは思ってしまうのだった。
世界の戦争を見ていると、故郷を失うってことがリアルに起きてしまうものだなと再認識させられるが、たどり着いた先で優しく受け入れられ、順応していけば、人生そのものが終わるわけではないとの希望も少しは持てる。
少なくとも、そう優しく受け入れられるような土地の人間になりたいものである。
感想
N.S.ハーシャさんの「なぜここにいるのだろう」のキリンの親子、ただその造形物だけを見ていると「白いキリンがそこにいた」で終わってしまうのだろうが、迷子であるという設定、帰る場所があるのか?という作者側からの問いかけを知ると、いろんな想像力が働いてくる。
自分は茶化しながらも現代の戦争とリンクさせてしまったが、人によっては災害や、精神的な孤立とも結びつけることができてしまうんじゃないだろうか?
観る人の、その時点での心の闇のようなものを透かしてくるようでもあるので、白い体をしながら、意外と怖い作品でもあるのかもしれない。
見えてますよ、あなたのこと
う、怖い…