随分と久しぶりに小学生の頃に住んでいた町に足を運んだ。
かなり月日が経っているため、当時と比べて変わっているところも多く、違う町に来たような感覚があった。
ちょっとした浦島太郎の気分であった。
もちろん、変わっていないところもあった。
その変わっていないところを探していると、それだけで懐かしくもなった。
この懐かしさが、ただの町並みにファインダーを向けさせた。
カメラを構えながらその懐かしさを追っていると、自然と自分は、むかし千回以上も通った通学路の上を歩いていた。
むかし、広く長く感じた道が小さく見えた
左手に見える建物は県営住宅だ。
今も昔も「県営住宅」に変わりはないが、形が違う。
むかしはこんな黒瓦の屋根のある建物ではなかった。
鉄筋コンクリートの箱型の建物で、五階建てだった。
五階建てなのにエレベーターがついていなかった。
五階でエレベータ無しは、建築基準法だったかに本来なら引っかかるはずだという話を当時聞かされたことがある。いまでは随所にバリアフリーが施された、緑も多い住みやすい住宅群になっていた。
むかしはこの県住住宅の広い敷地の真ん中に「ゾウさん公園」と呼ばれる、小さなゾウやその他動物のオブジェや遊具などが置かれた公園があった。
その「ゾウさん公園」がいまではどうなっているのか知りたくて敷地内に入ってみた。
なくなっていた…
この建物は集会場だろう。
その前に広場があるだけで、遊具などは一切ない。
むしろ看板には「ボール遊び禁止」と書かれていた。
子どもたちが遊ぶ声も姿もなく、静かな広場だった。
その静かさは、長閑で住みやすそうだと思えた。
同時に、寂しくなった。
当時、県営住宅の敷地を抜けると、また別の公園が目の前に現れた。
カブトムシを模した大きなオブジェが置かれた通称「カブト公園」だ。
その公園も現在どうなっているのか知りたくて、まっすぐそちらに向かった。
カブト公園はまだ存在していた
カブトムシのオブジェがあった場所も変わっていない。ただ、ほかの遊具の配置はちょっと変わっていた。
別の入口から見た公園内の様子
むかしと比べるとブランコが入り口を正面にして斜めに向いている。
以前はまっすぐこの入り口に向いていた。
そのブランコに乗りながら靴飛ばしをして、敷地外へと靴を飛ばしていた思い出がある。
左手奥にジャングルジムが見えるが、むかしは右手の奥、カブトムシのオブジェのお尻の辺りにあった。
よく遠心力で体が宙に浮くくらい回転させていた。
ある日、前歯をぶつけて先端が欠けたこともある。
すべり台も変わっていた
こんもりと作られた小さな丘の上に低いすべり台が置かれている。
むかしはブランコの側に、もっと高いすべり台が設置されていた。
さらにその側に、四人乗りのブランコ(箱ブランコ)も置かれていたと記憶している。
その箱ブランコの上部のバーに両手で掴まり、相手と向き合いながら脚だけで落とし合うという遊びをよくやっていた。
今考えると、危ないガキンチョたちだ。
写真のすべり台を登ってみたが、大人の自分には小さく、狭かった。
子供の頃、すべり台の上で何を見、何を考えていたのだろうか?
そのすべり台の上から、カブトムシのオブジェがよく見下ろせた。
こいつは、変わっていなかった
変わっていないことが、嬉しかった。
唯一変わったといえば、このロープだろうか
むかしはロープではなく、輪が太いチェーンだった。
自分の両足にチェーンを巻きつけてカブトの背中の上から逆さ吊りになっていた思い出がある。
イジメとかそういうのではなく、度胸試しに自分たちからそうやって遊んでいた。
こいつの背中も変わっていない
変わっていない分、大人になった自分にはやはり小さく感じられた。
当時は、3、4人、川の字に並んで寝れるくらい広いと感じていたはずだ。
このツノの上にもよくよじ登って跨っていた
小学生からするとかなり高いので、大人たちからすると「早く降りろ」と思っていたことだろう。
ここから何を眺めていたのかは、憶えていない。
内部はちょっとした基地のように使っていた
ただ、屋根がないので、ここに長居するようなことはなかった。
網越しの空は、また景色が違う
オブジェの側には水道も見える
この水道も当時と変わっていないんじゃないだろうか
公園内の一番奥に砂場があるのだが、その砂を固めたりする際にここの水をよく使った。
また、特に夏場などはサンダルを履いて遊んでいたのだが、よく砂や泥だらけになった足をサンダルごと洗っていた思い出がある。
余談だが、この公園の側には石碑がある。むかし岩が山積みにされていた場所にその石碑がある。不幸な事故が起きて、岩は撤去され、石碑となった。
その石碑の周りを彩る花々が、
美しかった
僕らの通学路
カブト公園の隣には保育園がある。これも、自分が子供の頃からずっとある。
その保育園の前も過ぎて少し広い道に出る。
懐かしい景色だった
そして、何かが少し変わっている
畑だったところに家が建っていたり
古いアパートが一切の面影もなくなるくらい新しく建てなおされていたりしていた
もちろん、変わっていないところもある。
当時は新しい方だと思っていたマンションも今では古く感じる
いつ頃からあるのか、あの頃にはなかった教会のようなものも建っていた
その斜め向かいには、
以前と変わらない建物がある
当時から人が住んでいる気配がなかったが、いまも変わらず廃墟のような佇まいをしているから、新しく建っていた教会以上に驚いた。
その建物のすぐ側にある階段
通学途中、ここを下から見上げることはあっても、登った記憶はほとんどない。
そこから数歩進むと、
分かれ道が目の前に現れる
周囲の建物は多少変わっているが、ここが分かれていることは変わっていない。
左側の道を進んでいくことが、正しい通学路だった。
ちなみに、左側の道ではなく、この分かれ道を正面にして左に折れると、
少し勾配がきつい坂がある
確か「ゴサンケザカ」と呼ばれていた。どういう漢字を書くのかはちょっとわからない。
この坂を上っても学校に向かえるのだが、自分が住んでいた町内の児童がここを通ることは「通学路破り」とされていた。
小学校高学年から中学生くらいの時にこの坂をチャリンコで、一度も足を地面につけずにどこまで駆け上がれるかよく挑戦していた。
上り切れなくても修行だと思っていた、当時マンガっ子だった自分が懐かしい。
正しい通学路を進む
この「通学路」の看板の足元に用水が流れているのだが、まだ小学校低学年の時に下校中に落っこちてしまったことがある。ずぶ濡れになった自分を、近くで工事だか水道調査だかをしていた若いお兄さんに助けてもらった。
シャワーで体を洗い流した時、赤いイトミミズが皮膚にくっついていたのを覚えている。その用水が決して綺麗な水ではないことをその時思い知った。
ここがその現場…現在は干上がっていた
大人になってから見ると大した深さではない。
ただ、小学校低学年からすると、大人で言えば3メートルくらいの深さになるだろう。
落っこちた時、それはそれは恐怖した。
でも、トラウマになるということはなかった。
その後、高学年くらいまで、この用水に葉っぱを小舟に見立て、それを流しては同級生たちとレースしていたくらいだ。
通学路に改めて目を向けてみると、記憶にない「接骨院」の看板が見えた。
このマンションも記憶にあるようなないような…
そのマンションのすぐ足元にはこんなものも
プラスチック製の漬物樽で水を受け止めている情景はむかしも見たことがあるのか、懐かしくなった。
高そうなマンションとこの田舎臭さとのミスマッチは自分には好みだ。
左手の空き地はむかしからあったように記憶している
この崖の風景もほとんど変わっていないはずだ
このアパートは見覚えがある
漬物樽の辺りから用水には水が流れていた
枯れ葉が流れているのを見ると追いかけたくなった。
流れが緩いセクションを抜け、濁流に飲み込まれるように急に流れが早くなるセクションが、小学生の自分には興奮するポイントだった。
写真で見ると長く感じる一本道
しかし実際歩いてみると、たいした長さではない。
特に大人の足では、現在住んでいる所から近所のコンビニに行くより短く感じる。
(地味にコンビニと距離のある所に住んでいる)
避難経路を示すため、今ではこんな看板もある
先ほどの「通学路」と書かれた黄色の看板と比べても随分新しい。
思い出すと、あの黄色い方の看板は当時からあったはずだ。
山の方に竹の群生が見えてくる
これが見えてくると学校が近い。
家庭菜園と思われる畑に張られた網
こういう破れた様を目にしたりすると田舎だと思う。
そしてまだまだ田舎であることに、安堵する。
道が長く見えるようで、大人の目線ではやはりそうでもない
崖に見えるワッフル
これもむかしからあったような記憶がある。
ちなみにこのワッフルみたいなものだが、崖崩れを防止するために施されている。それら工事を「法枠工」と言うらしい。
この辺りの用水はもう細くなっている
その辺りの家の庭でハイカラな風車を見つけた
おそらくカラスよけだと思われる。
その下のネットに生っているのはブドウだろう。
改めて「通学路」
この標識にも年季を感じる。
きっとあの頃からあるのだ。
この辺りまで来ると学校ももう近い
「水上~」と書かれた看板、見た目に新しいことからもわかるように、当時なかった。
写真のガスタンクの辺りに、当時デカい犬がいた
小学校低学年だった自分よりデカいんじゃないかって思えるくらい大きな犬だった。
この前を通るたびに吠えられていたから、ビビってた。
そしてこの辺り(右側)に「牛舎」があった
毎朝「モォ~」という鳴き声が聞こえていて、牛舎独特の臭さがあった。
今ではその面影すらない。
臭いもない。
どこが旧牛舎だったところなのか、その場所を特定することもできなかった。
まっさらな空き地があったが、ココが旧牛舎だったのだろうか?
思い出せない…
ここまで来るともう小学校の「足元」だ
この分岐点が懐かしい
周りの建物もほとんど建て替えられていないのではないだろうか。
上の方でもう小学校の校舎も見えている。
この突き当りを左に曲がると…
この坂だ
画像中、右手の空き地にはこんな看板もあった。
校長先生直々のお達しだ
おそらく私有地なのだろう。
坂の途中にお堂のようなものが見えたと思うが、正面に回ると…
不動尊とある
要するに不動明王が祀られている。
あの頃、毎朝のようにこの不動尊を目にしていたわけだが、当時は何が祀られているかなんてちっとも気にしていなかった。
いや、知らなかった。
恥ずかしながら、今回久しぶりに訊ねて今更ながら知った次第である。
そしてこの不動明王、「法島不動」と呼ばれているらしい。
むかしもここから水が出ていた
しかし当時、このような注意書きは掲げられていなかった。
思い出すと、あの頃は喉が渇いたからとこの水をカブカブと飲んでいた。
そして飲むたびに、お腹の調子が悪くなっていた。
そりゃ、このような警告もでるわね。
畏れ多くて仏像をくっきりと撮ることはできなかった
そういえば、小学生の頃からこの「お鈴(おりん)」を鳴らしたことはなかった。
もちろん今回も鳴らしていない。
というのも…
こっちの方に興味を惹かれていた
「こんなの、あの頃からあったっけ?」と思いながら小銭を取り出して入れていた。
お邪魔してしまったことへの「お邪魔賃」のつもりで入れたが、ちゃっかり不動明の前で合掌して「いいことありますように」と私欲を願った。
願いながら、「こういうことをするのって神社だよな」と思ったが、「まあ、いいか」と胸臆で片付けた。
お堂の右には階段
先ほどの、お堂を正面にして撮った写真にも写っていたと思うが、お堂の右には階段がある。そこを上るともう小学校は目の前だ。
ここに階段があることはむかしと変わらないが…
当時はこんなにキレイじゃなかったはずだ
枯れ葉が落ちていて清掃面では美しくはないが…
さて、この石段だが、当時「○十階段」と呼んでいた。
この石段の段数がその名前となっていたのだが、「○十」と記したのは、何十段あったのか思い出せなかったからだ。
たしか、70か80段はあったような記憶があった。
ということで数えてみた
しかも一度上って、もう一度下りながら数えた。
そして、途中でわからなくなり…
一度最後まで降りてまた上った
上りながら数えて、数え間違えがないよう、念のためもう一回下りながら数えた。
2往復している。
「九十段」あった
ちょう90段だ。
ということでこの石段の名前は「九十階段」だ。
でも、そう納得しながら「なんか増えているような気が…」と納得できない自分もいた。
(あとで姉に確認した所、当時は「70階段」だった)
なんにせよ、今は「九十階段」だ。
そしてまた上らなければいけなかったので、
さすがに疲れた
この日は気温30℃を超える真夏日だったので、この上り下りだけで襟元がべたつくくらい汗も掻いていた。
上った先にはデカい木が待ち構えている
なんか…いろいろ高かった
上った先の景色もほとんど変わっていない
ただ、やはり大人になったこの体では、この道が妙に狭く感じられた。
右手に見える赤いトタンの壁の建物は、
「十一屋町会館」だ
奥には、
神社がある
でもそんなことよりも、物置に書かれた「自家焙煎珈琲」の案内のほうが気になる。
当時もあったような無かったような、自分の記憶は曖昧だ。
どちらかと言うと、今回これが初見に思えた。仮に当時からこの物置があったとしても、ここにこんな文字が書かれていたなんて、その当時は認識できていなかったのだろう。それくらい記憶に無い。
さて、
改めて神社だ
ここもむかしからある。
境内に立っている3本のケヤキの木のうち一本が、自分が小学生のときにすでに樹齢100年を超えていたことを考えると、この神社もかなり古い。
こちらがおそらく一番古いと思われるケヤキ
なにせ幹が太い。
そしてデカい。
小学生の時、まず登ることは不可能だろうと、そんな理由から畏怖していた。
根本には苔が生えている
この苔には懐かしさを覚えた。
苔は年寄りの趣味だと小学生なりに理解していたが、この樹は苔を纏っているのだから相当な年寄りだと、そんなことを思ったこともある。
神社そのものは「八旙宮」とある
ちなみに、
正面の石鳥居には「八幡宮」と書かれている
漢字が微妙に違うが、なんにせよ、「八幡(ハチマン)」だ。
「ヤハタ」とも呼ばれることがある。
新羅から九州大分に渡来して以降、全国にて武家の守護神として信仰されていた神様だ。
※ちなみにこの知識はアトラスのゲーム『ペルソナ4』をプレイしているときに憶えた。
手水もある
が、水は出ていなかった。
今はもう使われていないのかもしれない。
この境内のすぐ隣に、
「十一屋小学校」がある
自分がここの児童だった頃は、写真のような石碑はなかった。
どうやら八幡宮を修復したらしく、奉賛者の名前が刻まれている。
そしてあの頃、この写真のように網フェンスで塞がれていなかった。写真で言うとちょうど真ん中辺りに小さな階段があり、そこから校内へと入っていけた。
ちょっとしたショートカットみたいなものだ。
いまではこの網フェンスを迂回しないと入れないらしく、迂回した先の正門にも「部外者立ち入り禁止」といった類の案内があった。
正門は当時もあった。
もっとも、自分はその正門から登下校したことがない。
小学校時代の自分にとって、学校への入口はやはりこの境内だ。
自分にとっての「通学路」はここまでだ。
感想
久しぶりの「通学路」、そこに派手な思い出はなくとも、小学生時代の自分を飾り気なく思い出せた。
誰かに自分の小学生時代のことを飾らずに伝えるとするなら、「通学路」を一緒に歩いてみるというのも良いのではないだろうかと、思えた。
最後に狛犬ショット
最近、狛犬がかわいく思えて仕方ない。
水族館や動物園を調べることが多いせいか、狛犬を愛くるしい動物を見るように見てしまう。
魔除けの力があって、怖ろしい存在であっても石造りの彼らはかわいい。
そして、動物のかわいいは正義だ。
胸筋がたくましくてもかわいらしい
キバがあってもかわいらしい
まるで記念撮影のように校舎と
自分が写りたくない、というか一人なもので写れないから、代わりに校舎と写ってもらいました。
なんか、むっちゃ爽やかだ。