初心の趣

カメラ初心者の石川県人が同県を中心に地方の変わった魅力を紹介しています

国指定重要文化財である「喜多家」を見に行ってきた

石川県の宝達志水町には国の重要文化財にも指定されている「喜多家」というところがある。

GW中に宝達志水町に立ち寄った際、見に行ってきたので紹介したい。

 

 

宝達志水町の分かりづらいところにある喜多家

以前より、宝達志水町には「喜多家」という重要文化財があることは、道の看板などで知っていた。

でもそれがどこにあるのか、長年いまいちわかっていなかった。

メインの通り、例えば国道159号線や249号線沿いにあるわけではないからだ。

半年くらい前に、道に迷ってたまたま通った道路沿いでそれらしきものを見つけることが出来た。

それ以降、一度行ってみたいと思っていた「喜多家」へ、GWの休みの時間を利用して向かったのだった。

こんなところにある

グーグルマップでは「加賀藩十村役 喜多家」とある。

地図でもわかるように国道159号線からも249号線からも離れたところにある。

なんだったら「のと里山海道」(旧能登有料道路)からも離れている。

だいたい、のと里山海道と国道249号線の間くらいにあるだろうか。

実際自分も、のと里山海道の米出ICで下りて宝達志水町に入ろうとした際に、道に迷って気がついたら喜多家の前を通っていたということがあった。

ここがその道路

はっきり言って細い。

車がすれ違うときどうしても減速させてしまうような細い道である。

ただし、門の前にある駐車場は広いので、実際に「喜多家」の真ん前を車で通るときはそんなにストレスがなかったりする。

そう、写真右手に見える門が喜多家だ。

門を正面に撮影

ここが「喜多家」だ。

右脇の石碑に大きく「喜多家」と書かれてあり、左脇の白い看板に「国指定重要文化財」ならびに開館時間や入館料が書かれてあるので、ここが見学のできる文化財施設だということは何となく分かるのだけど、こうしてみても「門」しか見えず、あとは木々がたくさん生えて建物らしいものがなんにも見えない。車で走っていたら殊更そうだから、そこがほんとうに今も営業しているのか疑問に思ってしまったものだった。

でもちゃんとやっている

門扉が開いていたら営業しているということだ。

開館時間は9時~16時45分(12月~2月は15時45分まで)。

入館料は、一般500円、小中学生200円(団体割引あり)だ。

毎週火曜日が休館日だそうだ。

とりあえず門をくぐってみた

くぐっても建物らしいものが見えない。

背の高い木々が何本も生えている。

ちょっと下り坂にもなっていて、整備された道もつづら折れになっているので、下の方が見えないのだ。

ラジコンとかミニ四駆のサイズなら峠の下り道みたいにみえるだろうな…などと考えてしまう自分がいた。

さらに下るとようやく建物が見えてくる

この見えてきた建物が受付になる。

えらい低いところにある。

どれくらい低いところにあるか…

石段を降りて振り返ってみた

石段がこれくらい高くなって見える。

くぐってきた門も、ここからじゃもう見えないくらいだ。

こちらが受付

明かりもついていて人もいた。

ここに来るまで確信を持てなかったがちゃんと営業しているのである。

自販機があってそれで入館券を買うのだと思ったら機械の調子が悪いらしく対面で人が応対してくれた。

自分はJAF会員になっているんだけど、JAFカードを提示したら割引価格で販売してもらえた。

受付の建物に貼ってあったポスター

宝達志水町の、花の慶次版ポスターだ。

宝達志水町は末森城があったところなので、その城主として知られる奥村永福(花の慶次では「奥村助右衛門」)つながりから、このように花の慶次シリーズのポスターが作られている。

会計を済ますと受付横の次の門の前で少し待たされる

ガイドの方がすぐに来るというので自分も待つことにした。

ガイドとか頼んでいないのだけど、ガイドしてくれるらしいのだ。

それにしても立派な門だ。茅葺き屋根が巨大で、迫力と年季を感じた。

ガイドは男の人(おじいちゃん)がやってくれることになるのだけど、最初にやってきた女の人(その男の人の妻)いわく、600年も前の門らしい。

今が2022年だから1400年くらいのものということになる。

「え?」となるけど、喜多家のご先祖様がこの地にやってきた際にこの立派な門も移築したのだとか。

初代喜多家がこの北川尻の地に土着したのは寛政15年(1638年)だそうで、門だけはそれよりも200年以上前に作られたものとなる。

600年も残っていることがすごい。

なお、ガイドしてくれる男の人(おじいちゃん)というのが、この喜多家の現当主(28代目)の方だった。

十村役とはなんぞや

ガイドをしてくれた現当主の方が、まず「十村役」について教えてくれた。

十村役というのは、加賀藩独特の村役人組織の頂点に立つ役職のことだ。

他藩でいうところの「大庄屋」なんかと同じで、要するに加賀藩に代わり村支配を代行していた者たちのことだ。

藩直轄の農村徴税代官も兼務していたそうだ。

新田開発や商売活動を盛んに行って、喜多家は文化11年(1814年)には所持高2305石もの大地主になっていたとのことだ。

そんなもので加賀藩の人たちの出入りも多く、この屋敷が「穴城」としての役割も果たしていたそうなのだ。

最初の門から建物が見えないくらいに下がったところにあったのは「穴城」だったからである。

木々も鬱蒼としていたし、これだけ低いところにあると、なるほど敵からはそこに陣屋があるとは思いづらい。

自分が、ここが本当に営業しているのかと最初に疑問に思ったことも当たり前のことなのだ。

こういった残っている穴城って相当レアなんだとか。

そりゃ重要文化財にも指定される。

 

屋敷の中へ

屋敷へと案内される

自分の他に、ご夫婦でやってきていたお客さんが別にいて、一緒に案内された。

写真、キャップをかぶっている方がガイドしてくれた現当主の方である。

門を抜けると広い庭の先に屋敷

落ち窪んでいるところにあるのに入ってみると土地が広い。

屋敷も大きく、入口となる玄関が4つもあることを教えてもらえた。

正面左から前田家のお殿様用、御家老クラス用、武士用、そして喜多家の人たち含め農民用と、位によって使う玄関が異なっていたそうだ。

くぐった門を振り返ると井戸があった

門の脇に井戸があった。

そのとなりは厩舎になっていて、武士たちが乗ってきた馬をここで洗ったり停めておいたりしていたそうだ。

ちなみに前田家のお殿様は駕籠に乗ってやってくる。

そんなもので正面一番左の殿様用の玄関は駕籠を停めれるように一番広く作られていた。

このように

写真の一番奥、柵をしてある入口が「大式台」と呼ばれる殿様用の入り口だ。

これがその大式台

広い入口で、駕籠を横付けしてしまえる。

その脇の二番目の入口が家老クラス用の「小式台」だ。

さらに右手に移ると役人(武士)用の「玄関」

ここを「表玄関」と呼ぶようである。

「御用」の提灯が飾ってある。

小式台より入り口が広いのだけど、頭を下げて入っていくようになっていたんだとか。

ここよりさらに右にあった入り口が十村役(平民百姓)たちの玄関で「内玄関」と呼ばれていたそうだ。

我々庶民(平民)も内玄関から入っていく

内玄関へと案内された。

ここで靴を脱いで中へと上がっていくことになる。

内玄関を入ってすぐの中の様子

奥が台所で左の畳の部屋は「溜りの間」という部屋で、最初にその溜りの間へと案内された。

結構広い

みんな(平民)のたまり場として使われていたから「溜りの間」というそうだ。

隠し部屋を作らせないようにこの部屋には天井がなかった。

あ、本当だ

加賀藩から十村役としていろいろ任されていても、武士の人たちは用心深いし、疑り深い。

まあ謀反だなんだもあった時代だから、そういった危機意識が普通だったのだろう。

ヤリも置いてある

やはりそういう時代だったのだ。

ちなみに上から三番目の一番長いのは「磔(はりつけ)用」なんだとか。

おっかないやら、勉強になるやらで自分はこれを見上げながらニヤけてしまった。

屋敷の平面図もある

一番左が現在の屋敷の平面図だ。

それによると溜りの間は17畳くらいあるようだ。

その平面図

次に案内されたのは「広間」と書かれたところで、順に平面図の左の方へとガイドされることになった。

なお、その「広間」からは加賀藩の部屋という認識なんだとか。

そんなもので…

平民のたまり場より座敷が高い

わかるようにこうして撮ってみたが、これ15cmも高いらしい。

いまでは分かりづらい感覚だけど、身分の差というものが当時にはあったのである。

これもまたその時代ならではというものだ。

上がって、振り返る

庶民だけど自分も加賀藩の部屋に上がった。

そしてすぐ振り返る。

左の入口が今上がってきた溜りの間との境界で、その右手に見えるのが武士の玄関こと表玄関だ。

広間より

この広間が20畳あるから一番広い。

奥に見えるのは「調詞所」というところだ。村の行政を司っていた所なんだとか。

そこに見える格子戸がまたキレイだった。

これがそれ

内側から外(庭)の様子を見ることができる。

でも反対に庭の方から屋敷の内側は見えづらいんだとか。

格子の一本一本が台形になっていて、そのようになるんだそうだ。

確かに台形だ

これも敵から身を守るための工夫の一つだ。

いまではレースのカーテンでこういった効果のものがあるけど、この手の機能、昔から発見されてて使われていたようで、自分としてはそれが驚きであった。

いや、昔の人をナメていた。

広間から小式台の内側を見学

家老クラスの武士が上がる玄関だ。

決して広くはないんだけど、まっすぐ上がってこれる。

その隣には大式台と呼ばれる殿様専用の玄関があるが、そこはもう殿様の部屋ばかりがならぶ殿様専用の区域のような作りになっていた。

 

殿様の部屋に

ここが大式台の内側

無駄に広い。

庭だってこんな具合に眺められる

駕籠をこの前で横付けして上がっていたみたいだけど、なんだったら駕籠ごと玄関の内側に入って来れたんじゃなかろうか。

この大式台から入った先の部屋が…

ここだ

広間から撮っている。

ふすまを隔てて向こう側の殿様の最初の部屋を「武台の間」というそうだ。

さらに奥へと廊下が伸びているんだけど、廊下なのに畳が敷いてあるから珍しい。

何かあったとき廊下も部屋として使えるように畳が敷かれているとのことだ。

その名称も「畳廊下」と呼ばれている。

大式台から上がって「武台の間」の奥に、仏壇の置かれた部屋があった。

そこが「謁見の間」になっていた。

謁見の間

ここで使者なんかと殿様が謁見していた。

殿様は左の「御次の間」から入ってきて、使者は逆に右隣にある「使者の間」から入ってくることになる。

仏壇があるが、喜多家では地元の人達との軋轢をなくすために禅宗から真宗に変えたそうだ。

ちなみにここが「使者の間」

こちらも覗いてみた。

ふすまには心落ち着かせるような絵も描かれている。

急いでやってくる使者も多かったろうし、死ぬ覚悟でやってくる使者もいただろうし、こういう絵は意外と大切だ。

今の世の中の相場なら高そうな作りでもある。

比べてこちらは「御次の間」

使者と合うために殿様がお着替えをする場所だ。

この頃の楽しみといえば「茶の湯」くらいしかなかったそうで、現代に殿様がいたらゲーム機くらいは置いてありそうな部屋だ。もちろん、そんなものはありませんが。

このさらに左の部屋が…

「御座の間」だ

こちらは殿様の寝室にあたる。

寝ているときが一番無防備になるので警護のものが掛け軸の裏に潜んでいたりしていたそうだ。

どういうこっちゃ?と思ったけど、どういうことか、そのあたりも説明してくれた。

みんなで部屋の裏の方へ

畳廊下を伝って部屋の裏側の方へ案内された。

こちらがそうですと案内してくれる現在の御当主

指差す先には入口の狭い小部屋がある。

その名も…

「武者かくしの間」

この小部屋に警護のものを潜ませていたのだ。

実は当時、掛け軸の裏が壁を切り抜いてこの部屋につながっていたそうで、殿様が就寝中襲われた際、掛け軸裏から飛び出して、殿様を守っていたそうだ。

いわゆる忍者屋敷の「どんでん返し」というやつだ。

こちらがその掛け軸裏のどんでん返し

いまはコンクリートで塞いでしまっている。明治の廃藩置県でなくなったそうだ。

ふさがっているが、高さも幅もあるのがわかるので、これなら緊急時に侍も飛び出せただろう。

ここに待機する武士は責任重大、何かあれば切腹ものなので「切腹の間」とも呼ばれていたそうだ。

部屋全体の壁がグリーン色だったのだけど、気持ちを落ち着かせるためにこんな色にしてあったんだとか。

ミスを許されない仕事だけに、精神ケアも事前にしてあったということだ。

この花もなんだか儚く思えてきた

武士も大変だ。

その「武者かくしの間」の隣には殿様のトイレと風呂もある。

御手水と湯殿だ

殿様のトイレはいまでいうオマルのようなものでしていたそうで、便の様子から殿様の体調チェックなんかもしていたそうだ。

また、殿様は湯殿(お風呂)に白い衣を着て入浴していたという。

時代劇なんかを観ていてそういうシーンを目にしたりした記憶がある。

その白い衣のことを「浴衣(ゆかた)」というんだと教えてもらえたけど、自分はそのことをこのとき初めて知った。

夏に女子が着る浴衣って、もともとは風呂に入るときの衣だったのだ。

目からウロコだ。

湯殿から戻る途中で殿様が目にしていた庭の景色も

教えてもらえた。

こちらから庭を眺めると…

こんな景色

自然を生かした枯山水なんだとか。

庭の下には千里浜の砂が敷き詰められているそうで、そのおかげで水はけもいいそうだ。

穴城というだけあって下がったところに屋敷があるので、敵には見つかりにくいが雨には弱そうだなと思っていたが、その砂のお陰で杞憂だった。

奥には五重塔も見える。

五重塔って天地創造を模しているんだとか。

庭にそんなものが置かれているところもそうない。

さすが殿様だ。

そんな加賀藩に喜多家の人たちも逆らわないようにしていたのだろう。

御座の間の釘隠しには…

土下座するウサギが象られていた

服従する意思を表していたそうだ。

平民や農民だって大変だ。

 

最後に台所や生活空間も見学

台所まで戻ってきた

ここ、天井も高くてかなり涼しい。

天然クーラーだと言っていた。

囲炉裏は現役で、雨の日はいまでも火を入れているんだとか。

囲炉裏って憧れるけど、維持もなかなか大変だ。

生活の香りがする部屋もある

江戸時代では見かけなかったであろうラジオや掛け時計なんかが置かれた部屋もある。

写真右奥の部屋ではもっと現代的な生活の香りがする。

ソファに扇風機まであるじゃないか

古いけど、扇風機はさすがに江戸時代にはなかろう。

壁には絵画(油絵と思われる)も飾られているし、ここで誰か現代の人が住んでいた香りがするのだ。

まあ、そのはずで、いまでこそ重要文化財として展示されているが、この屋敷、文化財に認定される前は喜多家の方々が生活していたのだ。

殿様や十村役の時代に目が行きがちだけど、数十年前の生活の様子もこの屋敷にとっては年輪みたいなものだろう。

眺めていて楽しかった。

 

感想

初めて立ち寄った国の重要文化財である「喜多家」、勉強になって興味深いところだった。

加賀藩と十村役の関係だとか、部屋の使われ方だったりだとか、現当主の解説もとても良く、このガイドなしだったら、ほんとただ観て終わっていただろう。

時代劇なんかではなかなかわからない殿様たちの生活を知ることが出来てほんと楽しかった。

この手の歴史資料にはやはりガイドって大事だと改めて思い知った次第だ。

敷地内には屋敷とは別に資料館もある

蔵を改装して出来た資料館もあった。

こちらも入って見学できるので自分も見てきたが、中での写真撮影はここでは禁止されていたので写真はない。

喜多家の歴史が学べる資料館だった。

殿様じゃなくても、家を繋いできたってなんだか尊い

見学していてそんなことも感じられた。

そんなもので、自分もこれからも家族は大事にしていこうかと思う。