映画ソムリエを目指す猫

〇〇なときに観たい映画をレビューしており候。

『いまを生きる』 社会の中で自分で考えることを諦めてしまっている時に観たい映画

『いまを生きる』

公開:1989年6月2日(アメリカ)

上映時間:128分

監督:ピーター・ウィアー

製作:スティーヴン・ハーフ、ポール・ユンガー・ウィット、トニー・トーマス

脚本:トム・シュルマン

撮影:ジョン・シール

音楽:モーリス・ジャール

編集:ウィリアム・アンダーソン

出演:ロビン・ウィリアムズロバート・ショーン・レナードイーサン・ホーク、ジョシュ・チャールズ、ゲイル・ハンセン、ディラン・カスマン、アレロン・ルジェロ、ジェームズ・ウォーターストン、他

 

あらすじ

1959年、アメリカ・バーモントにある名門校ウェルトンアカデミーに詩の先生として新たに赴任したキーディングは、伝統と規律を重んじる同校にて型破りな授業を行っていく。戸惑いながらも彼に刺激を受けていく生徒たちの内7人は、同校の卒業生でもあるキーティングがかつて在学中に詩を読み合い自分を語り合う「死せる詩人の会」なるものを立ち上げていたことを知ると、深夜に密かに寮を抜け出し自分たちで会を復活させるのであった。恋をする者、自分の本当にやりたいことを見つけた者…規律と親の期待に抑圧された学園生活の中で今の自分を見つめていく彼らであるが…

 

レビュー目次

 

 

先に結論を言ってしまうと…

作品の邦題の通り、この映画はいまを生きる大切さを教えてくれる映画だ。

作中でも先生が生徒たちに詩の一節を用いて「いまを生きろ」と教えている。

では、いまを生きるとはいったい何なのか?

これを考えた場合、その捉え方は十人十色になると思われるので、ここから示す解釈はこの猫の目の偏見によるものであると承知していただきたい。

その偏見によれば、「いまを生きる」とは大人や社会がいうことにただ従って生きていくのではなく、自分の頭で考え、精神的に自立した状態で人生のその瞬間を大切に生きていくことだと捉える。(ただし、バカをすることは「いまを生きる」とは言わない)

よって、この映画は世の中に流されて、流されていることに辟易としながらも、その流れに抗えない人の背中を押してくれる映画だ。

 

猫の目が抱く疑問

映画が公開されたのが1989年で映画の舞台が1959年なので、公開当時、昔は学校の規律が厳しくて学園に自由なんてなかった、あの頃の俺たち私たちには将来の選択の自由なんかなくて、親たちの言いなりだったといった共感を、主人公たちに抱いた大人たちも少なくなったのではなかろうか。そして自分たちの子供世代を見て、世の中は自由になったものだと思ったことかもしれない。

一方で、その子どもたちからしてみれば、今だってなんだかんだで規律や束縛はあるし、大人は俺たち私たちのことなんてわかってくれない、だから同映画に登場する型破りで今を生きろと言ってくれるキーティング先生みたいな人がいてくれたらと思えば、自分たちでも何か行動を起こしたくなる…と思ったことだろう。

では現代にいたり、その子供だった俺たち私たちが、今度は大人になって自分たちで子供を持つようにいたった今では、このような映画はどのように見られるのか、この猫の目にはそのあたりがふと気になった。

 

今の時代の子供は束縛されている?

いまの日本では、少し前のゆとり教育というものもなくなったとはいえ、週休二日はちゃんとある、子供そのものの数が減っているから受験戦争というものも苛烈ではなくなってきた、さらには子どもたちの親がいわゆるモンスターペアレントにもなって学校側に文句を言うことも少なくないので、59年のあの時代のように強烈な学校体制の下で精神的に拘束されるといるとはなかなか言えないだろう。

子どもたちにしても将来の職業選択の自由は許されており、親が子供の進路を強制してしまうということもいまどきの一般的な家庭ではなかなか見かけない。強制されているところがあるとすれば、伝統芸能の家柄だとかよほど特殊な家庭に限るだろう。

おまけになんでもネットで調べられる時代で、小学生くらいからタブレットスマホに触れる機会のある今どきの子どもたちは、それこそネット上の媒体(例えば動画であったり静止画であったり、ゲームであったり)から様々な刺激を受けている。仮に学校にて多少の束縛を感じていたとしても、学校の言うことだけが全てであるといった考えにはなかなか至らない。

同映画の中で言えば、彼らはもう小学生くらいの時からネットをキーティング先生の代わりにし、自分で考え、自分のやりたいことを主張する独立した精神を持っているわけだ。

それでいて面白いのは、独立した精神は持っていても、子供であるからそれに釣り合った、またそれを実現する経済力はない。

ひとたび「誰が月々の使用量を払っていると思っているんだ」と親が彼らからスマホタブレットを取り上げたり、使用に制限を設けてしまえば、たちまちそこに「束縛」や「世の中の窮屈」さを覚えてしまう。

そしてこれまた面白いのは、親がそう子供からスマホタブレットを取り上げたりするのは、ネットばかりして勉強をしない子供たちを懸念して、その将来に不安を覚え、ちゃんと学んで受験して高校や大学くらいは行ってもらって、一人でも食べていける正しい社会人になってもらいたいと期待するからである。

つまりは、いつの時代にも大人の期待から束縛感を覚える子供という図式も、大人世代と子供世代の軋轢も存在するというわけなのだ。

今の子供たちでも、この映画の主人公たちの苦悩や気持ちに少なからず共感できるであろうし、しづらいなら進路を決められていると考えずに、スマホタブレットを禁止令が出たと考えて見ればできるのではないだろうか。

 

大人でもいまを生きる

また、いま大人となってしまった者も見方を変えると主人公たちに共感できる。

会社ではさらに上の世代や上司より理不尽な要求をされたり、国や地方の行政や議会によって納得のいかない制度を設けられて歯がゆくなることもあるだろう。

これらに置き換えると、いまを生きるというのは、何も子供たちのための言葉ではないことに気付かされる。

特に最後のシーンの「無理やり著名されたのです」と訴えるところからの一連のシーンなどは、「生活があるので仕方なく従ったのです」なんてシチュエーションに置き換えると大人でも共感でき、泣けるものだ。

どうせ逆らっても変わらない、変わらないから何も考えずに従っているしかない…

あの悲しい結末を見ていれば結局諦めるしかない、そう解釈できるところもある。

それでも生徒たちが最後の最後で机の上に立ったように、自分たちで考えることをやめてはいけないもので、時にその意志を示すことも必要なのであろう。

改めてこの映画を観て、そう感じ取った。

これは子供や大人、関係ない。